ということで、後編も視聴。
後編になってやっと、
「ああ、これは『男が生き残ってしまった失楽園』なんだなあ」とわかる。
あと、渡辺淳一はロックで居たいんだな多分、一生。とか、なんとなく、感じた。
(それはκの好きな「ロック」とはまた違う意味合いで。)
見れば見る程「じゃあ君も死ねばいいじゃないかー。」と思うばかりなのだけれど、
まあそうしちゃうと前作と同じになってしまうからね?
そういうわけにもいかないのね?
まあ、意外と「どちらかが死ねない」方が、リアリティは有るのかもしれないなあ。
でも、じゃあひとつ、愛の頂点について真面目に考えるとしてさ、
前回、『失楽園』で「心中」を一つの頂点としたわけでさ。
心中ってのも、ナルシシズムの一つの歪んだ形とも言えるわけでなんだけれども、
「片一方だけ殺されて、それが幸福」というのは、
もっとナルシシズムを突き詰めちゃった感じがするけれどもな。
相手よりも何よりも、
「相手を好きでいる、相手に愛されている、その自分が好き、相手よりも誰よりも」という事なんだろうなあと。
その瞬間で総てを終わりにしてしまいたいというのなら、
それは自己愛だろうと。我儘だなあと。
それなら心中の方がまだマシじゃないのか?
でも、まあ、恋愛なんて多少もへったくれもなく我儘なものなんだし、自己愛0%の恋愛なんて存在しないんだろうし、
そういうものもあるんだろうけれど、
それを「綺麗なもの」にするなや、
「綺麗なものなんだ」「愛しあってるんだとわかってほしい」と世間に認められようとするってのが、
何だか、変なの。
自分達だけでわかってればそれでいいんじゃないのかな。
というわけで、偉いこと都合良く進む脚本にかなり吃驚しつつ、
(もっと冷めた視点があるかと思ったなあ、)
「まあファンタジーですから」という事にして、終わり。
(決してファンタジー小説というジャンルという意味では無い、そのジャンルを貶めてるわけでもない)
これが受けてるということは、恋愛って何なんだろなー。
男女の事はよくわからんちん。


「失楽園」に比べて、
やっぱり「二番煎じ」(しかも自分で)の感が強いからではないかと思われます。
いっそ渡辺淳一、今度はプラトニック・ラヴをやってみたらいいのに。
手、つなぐくらいなの。
渡辺淳一で胸キュン。無理ですね。